2012年 05月 09日
必死に辻説法する学生の姿が忘れられない… |
進学も就職もうまくいかなくて19歳の時単身大陸へ。下関から釜山、苦力や船の助けで天津にわたりました。建設部品の商事会社で働いた後、海軍への兵役のため帰国。砲撃を学んで少尉で終戦。もう少し戦争が長引いていたら戦死していたかもしれませんね。 戦後は神戸の三菱造船で働きました。
子どもの頃、マントを羽織った学生さんが辻説法をしていたが、公安警察の手入れがあると、組み立て式の演台を急いでたたんで逃げ出していたのが忘れられないそうです。
三菱では職員労組の書記長も務めました。面倒見がよくて30組以上も仲人をなさったとか…。喉の手術で声を出すのがご不自由になりましたが、2年半前の三原の選挙では、電話で何千人にも支持を訴える、とっても真面目な大先輩です。
by hirosima6kujcp
| 2012-05-09 22:18
| 尾道三原地域